平成二十年の同じ時期が上野東照宮ぼたん苑への初めて訪問でした。 あれから今回で四回目となりました。 昨年の二十二年の今頃は老母が食事がままならなくなり、死期も近いのではないかとの暗い気持ちで訪れたのを覚えておりますが、今年はあの大地震大津波から一ヶ月以上も経ってはいますが、まだ余震がある状況での四回目の訪問となりました。 

 浮かぬ気持ちで迷いながらの訪問となったのですが、このぼたん苑に入るや否や、そんな思いも吹っ切れて感嘆の溜息ばかしで夢中になって撮影してしまいました。 気が付きましたら画像は百枚を越してしまったくらいでした。 三年前の初めて訪れた折に詠んだ歌を思い出しました。

         

 歌の通りに今年もまた「人の世は悲しきものや」となってしまいまして、東北地方のあの惨状には絶句してしまいます。 あっと言う間に人も建物も仕事も何もかも飲み込んでしまう、こちらも経験した事のない怖い思いをしたのですが、こうしてぼたんに惚れてため息をつき、次から次へ撮影に夢中になれたのは幸いそのものと言うべきのはずです。 寸陰惜しむ心をいよいよ強く感じての撮影となったのでしょうか。             

          

          

        

      

 園内に俳句が書かれた立板がいくつもあるのですが、ほとんど見ずじまいでしたが、これは何故か気になり写真を撮りました。 「今生(こんじょう)の あやふさにあり 白牡丹」でいいのでしょうか、それとも「あやふさにおり」か。 

 生(しょう)あるものなべてあやふさ(あやうさ)の中にあって、この白牡丹もしかり、人も然り。 その危うさの中で花咲くのが生とも言える。 

               

 明日のいのち確かならざるのが生(しょう)あるものが置かれている立場でしょう。 「人、死を憎まば、生を愛すべし。 存命の喜び、日々に楽しまざらんや。・・・・・中略・・・・・人皆生を楽しまざるは死を恐れざる故なり。 死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るるなり」と徒然草には侍り。

 同様の事がしばしば表現を換えて書かれていますのが、それが徒然草の真髄と言ってもいいのではないかと感じています。

 何とか辛うじて小商いをして暮らしていますが、商いとなると損得そのもので忙しい、またこうも書かれています。 「名利(みょうり)に使われて、閑(しづ)かなる暇(いとま)なく、一生苦しむこそ、愚かなれ」と、名利は損得と言ってもいい訳ですので、名利の奴(やっこ)となって使われてしまうのが商いと言える。

 そう言う暮らしの中で、しばし閑(しづ)かな暇(いとま)を楽しむ、寸陰愛惜の心を失いたくないものです。 そうでないと「先途(せんど)の近きを顧みねばなり」となってしまう。

 いずれにせよ、人が生きるとは「惑ひの上に酔へり、酔ひの中(うち)に夢をなす」日々のはずです。 わずかないつ死ぬかわからない命ですので、穏やかに過ごしたいものです。 「一日の命、万金(まんきん)よりも重し」と肝に銘じて生きたいものです。 されどもまた喉元過ぎればと言う事になりかねない。 「惑ひの上に酔へり、酔ひの中(うち)に夢をなす」日常茶飯事に戻ってしまいそうです。

            

             

                          

                                               

 「季節の花 300」と題するサイトは実によく花について調べられていまして、時々参考にしています。 必ずお役に立つサイトのはずです。